東声会と町井久之の真相!力道山との絆から六本木の現在まで徹底解剖
終戦直後の焦土と化した東京・銀座を根城に、わずか一代で巨大な裏社会帝国を築き上げた男たちがいた。その筆頭格が、「銀座の虎」と恐れられた町井久之(本名・鄭建永)であり、彼が率いた独立組織が「東声会(とうせいかい)」である。単なる暴力団の枠組みにとどまらず、政財界の黒幕や国民的スーパースター・力道山との深い結びつき、果ては日韓国交正常化の舞台裏にまで介入したその足跡は、昭和裏面史そのものと言っても過言ではない。
警察庁による壊滅作戦や組織の解散、実業への転換を経て、後継組織である東亜会(七代目東声会)は2026年現在も存続している。しかし、往時の圧倒的な動員力や経済力と比べ、その姿は劇的に変貌を遂げた。かつて日本全土を震撼させた東声会とは一体どのような組織だったのか。一次史料や当時の証言記録を再検証し、その栄枯盛衰の全貌を浮き彫りにする。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:町井久之が創設した東声会は、銀座の利権を掌握して最盛期には構成員1,500人規模を誇り、興行界や政財界のフィクサーと深く交錯した戦後最大の独立系組織。
- 要点2:プロレスの英雄・力道山とは同郷の盟友として興行や警護を一手に支え、児玉誉士夫の後ろ盾を得るも、警察の第一次頂上作戦により1966年に解散へ追い込まれた。
- 要点3:解散後は「東亜相互企業」による政財界工作を展開するも破綻。後継の東亜会は2026年現在、指定暴力団ではなく構成員20数人規模の小組織として港区六本木に拠点を置く。
【創設の原点】「銀座の虎」町井久之の経歴と東声会誕生の背景
東声会の歴史を紐解く上で、創設者である町井久之の特異な生い立ちとパーソナリティは外せない。町井は1923年(大正12年)、東京に生まれた在日朝鮮人一世である。戦前・戦中の過酷な差別と貧困を生き抜いた彼は、敗戦直後の荒廃した東京で頭角を現した。
GHQによる占領下、東京・新橋や銀座の闇市は既存の博徒・テキヤ組織と三国人(在日朝鮮人・台湾人連盟)勢力が入り乱れる無法地帯と化していた。町井は不良少年や青年層を糾合して独自の自警集団を結成。1947年(昭和22年)、弱冠24歳で「東声会」を旗揚げした。警察関係者の記録によると、町井は粗暴な振る舞いを嫌い、構成員にスーツの着用を義務付けるなど、当時としては異例の規律を敷いたとされる。
町井の台頭を決定づけたのは、東京屈指の一等地である銀座の権益を巡る熾烈な抗争劇だった。生粋の江戸っ子を自任する既存の博徒組織や愚連隊と真っ向から衝突しながらも、抜群の度胸と緻密な組織力で銀座全域の用心棒代や興行権を掌握。夜の街で恐れられたその獰猛な進撃ぶりから、彼はいつしか「銀座の虎」と呼ばれるようになった。

【昭和の盟友】東声会と力道山の知られざる関係とプロレス興行の裏側
東声会の勢力拡大を語る上で欠かせない最大のファクターが、戦後日本の国民的ヒーロー・力道山(百田光浩、朝鮮半島出身)との盟友関係である。二人の邂逅は、昭和の興行界とアンダーグラウンドが渾然一体となっていた時代を象徴している。
相撲界を廃業し、プロレスリングという未知のエンターテインメントに活路を見出そうとしていた力道山にとって、興行を成功させるための治安維持と資金調達は死活問題だった。同じ出自の痛みを共有し、孤立無援の日本社会を実力一本でのし上がった町井と力道山は、急速に兄弟分のような親密さを築いていく。町井は日本プロレス協会の設立や全国巡業の警備を全面的にバックアップし、力道山が推進した「リキ・スポーツパレス」の建設をはじめとする巨額ビジネスにも深く関与した。
しかし、この蜜月は突如として悲劇的な幕切れを迎える。1963年12月8日夜、東京・赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、力道山が住吉一家系の暴力団員・村田勝志と口論になり、登山ナイフで腹部を刺される事件が発生した。一週間後の12月15日、力道山は39歳の若さで急逝する。
盟友を奪われた町井久之と東声会の憤激は凄まじく、東京裏社会は全面戦争の前夜という極限の緊張状態に陥った。結果として、政界のフィクサー・児玉誉士夫らの仲介によって辛うじて手打ちとなったが、力道山の死は町井の精神に致命的な打撃を与え、東声会の興行利権の構造をも大きく揺るがす契機となった。
【激動の昭和裏社会史】児玉誉士夫の影、柳川組との攻防、そして電撃解散
東声会は単なるローカル組織にとどまらず、日本の東西を揺るがす権力闘争の渦中へと巻き込まれていく。その中心にいたのが、反共運動の総元締めであり「政界のフィクサー」と呼ばれた児玉誉士夫である。冷戦構造下、町井の反共主義と統率力に着目した児玉は、東声会を自らの警護や反共行動隊として重用。さらに、関東の錦政会(のちの稲川会)や関西の三代目山口組などを糾合した巨大右翼連合「東亜同友会構想」を画策した。
しかし、この壮大な大同団結計画は破綻する。1963年3月、横浜のサパークラブで発生した「グランドパレス事件」(錦政会と山口組系井志組による銃撃戦)を皮切りに、東西ヤクザの抗争が激化。さらに、山口組の尖兵として名を馳せた「殺しの柳川組」が東京進出を企てると、迎撃態勢を敷く東声会との間で一触即発の危機が訪れた。
激化する暴力団抗争に対し、世論の批判を浴びた警察庁は1964年、全国一斉の大規模弾圧「第一次頂上作戦」を発動する。東京の象徴的ターゲットとされた東声会は、幹部が次々と逮捕され、資金源を断たれる壊滅的打撃を受けた。これを受け町井は1966年9月、組織の存続を断念し、構成員約1,500人を集めて電撃的な解散宣言を発表した。
| 年代・事件 | 詳細・組織の動き | 当時の情勢・基準 | 歴史的評価・影響 |
|---|---|---|---|
| 1947年 東声会結成 | 町井久之が銀座を拠点に在日系青年らで旗揚げ | 終戦直後の混乱期、闇市利権が乱立 | 銀座の治安を掌握し「銀座の虎」へ成長 |
| 1950〜60年代 プロレスと政界工作 | 力道山の興行支援、児玉誉士夫との反共提携 | 冷戦下の反共政策と高度経済成長初期 | 政財界・芸能界に跨がる不可侵の権力を獲得 |
| 1966年 東声会解散 | 警察庁「第一次頂上作戦」の圧力により自解散 | 1,500人規模の全国主要暴力団の解散ラッシュ | 武闘派ヤクザから「企業舎弟・実業路線」へ舵切り |
| 1970年代 東亜相互企業事件 | 関釜フェリー航路など巨額利権開発と手形事故破綻 | 日韓国交正常化後の経済援助・政商バブル | 政財界を巻き込む疑獄へ発展し町井の帝国が崩壊 |
| 2026年現在 東亜会/七代目東声会 | 六本木・善隣会館に本部、構成員20数人規模 | 暴対法上の「非指定」組織 | かつての勢力はなく、象徴的看板のみが残存 |

【政財界のフィクサーへ】東亜相互企業の真相と町井久之の野望
1966年に東声会を解散させた町井久之は、決して裏社会の権力から身を引いたわけではなかった。翌1967年、町井は合法的な親睦団体として「東亜友愛事業組合」を発足させ、続いて設立した「東亜相互企業」を足場に、実業家・国際フィクサーへの転身を図ったのである。
折しも1965年の日韓基本条約締結以降、日韓両国の政財界パイプは莫大な利権の温床となっていた。町井は韓国政府の高官や日本の親韓派大物政治家(岸信介、児玉誉士夫ら)とのパイプを武器に、下関と韓国・釜山を結ぶ「関釜フェリー」の開設、巨文島開発、TST(東京サノ・テキサス)ボウリング場をはじめとするレジャー開発など、百億円単位の巨大プロジェクトを次々と手掛けた。
しかし、背後に暴力団の威力を残したままの急激なビジネス拡大は脆さを孕んでいた。1970年代後半、東亜相互企業は巨額の手形乱発と資金ショートに陥り、いわゆる「東亜相互企業事件」として捜査のメスが入る。巨額の資金が政界や裏社会へ流出していた事実が露呈し、町井の経済帝国は急速に瓦解していった。暴力と政治、合法ビジネスの境界を歩んだ町井の野望は、バブル経済前夜の法治国家システムによって締め出される結末を迎えたのである。
【実態検証】指定暴力団東亜会組織図の変遷と2026年現在のリアル
東亜相互企業の破綻や町井の求心力低下に伴い、組織の受け皿は再びヤクザ組織としての性格を色濃くしていった。東亜友愛事業組合は「東亜特別連絡協議会」を経て、やがて「東亜会」へと改称。さらに近年に至り、初代の看板である「東声会」の名を復活させ、2026年現在では「七代目東声会」を名乗る動向も確認されている。
ここで多くの人が抱く疑問が、「東亜会は現在、指定暴力団なのか?」という点である。結論から言えば、2026年現在も東亜会(東声会)は暴力団対策法に基づく「指定暴力団」ではない。警察庁の公式要件(構成員数、前科比率、組織構造など)において、組織の縮小により指定基準の要件を満たしていないためである。
警察白書や治安関係筋の報告によると、港区六本木3丁目の「善隣会館」2階に本部事務所を置くものの、2022年時点で構成員数はすでに20数人規模まで激減している。かつて銀座の街を埋め尽くした1,500人の猛者たちの面影はなく、六本木の片隅に看板を維持するのみという実態が浮き彫りとなっている。

【社会学的分析】東声会現象が戦後日本社会に遺した教訓
東声会という存在は、戦後日本社会が抱えていた「法整備の不備」「マイノリティの周縁化」「高度経済成長の影」を凝縮した合わせ鏡である。家族社会学や犯罪心理学の観点から考察すると、この組織の台頭と衰退には現代にも通じる構造的問題が横たわっている。
第一に、「周縁コミュニティと自衛集団の暴力化」という社会力学である。終戦直後、国籍や出自によって法的な保護や正当な経済活動の門戸を閉ざされた人々にとって、町井久之が作った東声会は一種の「互助組織」であり、過酷な差別に対抗するシェルターの役割を果たした。しかし、自衛のために蓄積された暴力装置は、一度資本の味を占めると容易に他者を侵食する反社会的勢力へと変貌する。
第二に、「興行・エンタメ界におけるガバナンスの欠如」である。力道山と町井の共闘関係に見られるように、昭和のエンターテインメントはグレーな暴力装置の庇護なしには成立し得ない脆い構造にあった。現代のスポーツ・芸能界が推進するコンプライアンス改革や反社排除の徹底は、まさにこうした昭和の負の遺産への痛烈な反省から導き出されたものである。
【プロの結論】昭和の裏面史から学ぶべき境界管理の鉄則
現代のビジネスや組織運営において、東声会の興亡が示す最大の教訓は「不透明なグレーゾーンへの依存がもたらす破滅的リスク」である。町井久之は合法ビジネスへの転換を試みながらも、暴力団組織の威力を手放すことができず、最終的に社会システム全体から排除された。個人の人間関係においても組織のコンプライアンスにおいても、「心理的・物理的バウンダリー(境界線)」を厳格に保ち、曖昧な力学に甘執しない姿勢こそが、破滅を防ぐ唯一の防波堤となる。
【東声会】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:東声会(東亜会)は現在、指定暴力団に指定されていますか?
A1:指定されていません。東声会から改称を重ねた東亜会は、2026年現在も暴力団対策法に基づく「指定暴力団」の指定対象からは外れています。警察庁の集計データ等によると、構成員数が20数人規模にまで大幅に縮小しており、法的な指定要件を満たしていないことが主因です。
Q2:力道山を刺殺した犯人は東声会の組員だったのですか?
A2:誤解されることが多いですが、東声会の組員ではありません。力道山を刺傷した村田勝志は、住吉一家(現在の住吉会系)の組員でした。むしろ東声会の町井久之は力道山と固い盟友関係にあり、事件の一報を聞いた町井は激怒し、住吉会との全面抗争に突入しかけたという経緯があります。
Q3:創設者である町井久之の最期はどのようなものだったのですか?
A3:町井久之は東亜相互企業事件の破綻以降、表舞台から姿を消し、実業界の第一線から退きました。晩年は病気療養を続け、2002年(平成14年)9月14日に東京都内の病院で死去しました(享年79)。昭和の激動期を象徴する巨魁の死は、一つの時代の終わりを告げる出来事として報じられました。
まとめ:戦後史の影を映す鏡としての東声会とその終焉
東声会と町井久之の軌跡は、暴力と野望、そして戦後日本の復興期特有のエネルギーが交錯した壮大なドラマであった。「銀座の虎」として夜の街を制圧し、力道山と共に興行界の頂点を極め、政財界を動かした日々は、昭和という激動の時代背景があって初めて成立した特殊な現象である。
2026年の現在、六本木にわずかな勢力を留める東亜会(七代目東声会)に、かつての権勢を想起させる力はもはや残されていない。しかし、彼らが残した爪痕と歴史的教訓は、暴力と権力が社会を蝕むメカニズムを理解するための重要なファクトとして、いまなお語り継がれている。 (出典: 東 声 会(Yahoo!ニュース))